相馬野馬追 [戦国]
相馬野馬追:騎馬武者たちの勇壮な姿に歓声 福島
毎日新聞 2015年07月26日 20時59分(最終更新 07月26日 22時11分)
http://mainichi.jp/select/news/20150727k0000m040041000c.html
毎年この時期になると福島県相馬で野馬追という勇壮な行事が行われる。
この行事はしばしば神事と言われるのだが、神事というより普通に武士の時代の軍事訓練だろう・・・といった趣。私も見に行ったことがあるんだけど、仕立てとしては、戦(いくさ)を前にして兵が集って信心している神様にご挨拶して気合を入れ出陣式を執り行い、その後町を練り歩き、戦場に赴き、そこでいわゆる甲冑競馬が行われ、そこでは神旗争奪戦というこれまた教練のハイライトのような行事が行われる、といった流だった。
ではなぜ「神事」と言われるのかといえば、どうも、江戸時代に入ると武から文に移っていくので一般的に軍事教練などまかりならんということになる。その際に、いやいやこれは妙見様へのお供えじゃて、とかなんとか言って神事として行うことが許されていたという成り行きからだという。
いやしかし、一度行ってみればわかるけど、騎馬の武者(に扮したおじさんたちなんだけど)がずらずらと通りを練り歩いている様も、アイドルが歩くみたいなああいう嘘臭さが全くない、地味一本やりなところがかえって勇壮だし、雲雀が原という戦場に見立てた場所も広々とした本当の原っぱで、そこで行われる甲冑競馬という、甲冑着た人たちによる競馬も掛け値なくマジ。
勝った武者が小高い場所に駆け上がってきてそこでご褒美かなんかもらうんだけど、ここを駆け上がってくる姿がまたカッコよかった(たまたま私はここが見える場所で観覧していた)。
お祭りというよりは軍事教練色が濃厚に残っていてそれが故に素晴らしい。いや、私はそう思うし、それが面白くて非常に感心したのだけど、おそらくそれが故に、いつの時代も、いやいやこれは神事、これは伝統、そんな物騒なものではありません、おーほほ、というカバーが必要なんだろうと思った。
ついでにいえば、行った時に地元の人にお話しを聞いたところによれば、相馬家の代々の方が参加されることもあるんだそうだ(毎年必ずということではないらしい)。やっぱりお殿様が出てこなければ集団としてのまとまりがないものなぁと私は思ったが、しかし、ということは参加者のアイデンティティはやっぱり「その相馬」なんだろうなとかも思った。つまり、市長のいる相馬ではなくお殿様のいる相馬こそ本当のアイデンティティー、と。
しかし、いやこういうことを言うとなんだか物騒なので、さらに、いえいえこれは神事です、伝統です、ええ、まさに神事です、という穏やかなカバーが必要だということになるでしょう。
考えれば考えるほど面白いと思いました。
いずれにしても戦国ファンの方必見です。しかし、一方で、間違っても大規模な観光化されてほしくないという気持ちもありますねぇ~。密かにさりげなく見たい人が見学に行くのがいい行事だと思う。なんにしても、よくぞここまで続いたと感心させられること大です。
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毎日新聞 2015年07月26日 20時59分(最終更新 07月26日 22時11分)
http://mainichi.jp/select/news/20150727k0000m040041000c.html
毎年この時期になると福島県相馬で野馬追という勇壮な行事が行われる。
この行事はしばしば神事と言われるのだが、神事というより普通に武士の時代の軍事訓練だろう・・・といった趣。私も見に行ったことがあるんだけど、仕立てとしては、戦(いくさ)を前にして兵が集って信心している神様にご挨拶して気合を入れ出陣式を執り行い、その後町を練り歩き、戦場に赴き、そこでいわゆる甲冑競馬が行われ、そこでは神旗争奪戦というこれまた教練のハイライトのような行事が行われる、といった流だった。
ではなぜ「神事」と言われるのかといえば、どうも、江戸時代に入ると武から文に移っていくので一般的に軍事教練などまかりならんということになる。その際に、いやいやこれは妙見様へのお供えじゃて、とかなんとか言って神事として行うことが許されていたという成り行きからだという。
いやしかし、一度行ってみればわかるけど、騎馬の武者(に扮したおじさんたちなんだけど)がずらずらと通りを練り歩いている様も、アイドルが歩くみたいなああいう嘘臭さが全くない、地味一本やりなところがかえって勇壮だし、雲雀が原という戦場に見立てた場所も広々とした本当の原っぱで、そこで行われる甲冑競馬という、甲冑着た人たちによる競馬も掛け値なくマジ。
勝った武者が小高い場所に駆け上がってきてそこでご褒美かなんかもらうんだけど、ここを駆け上がってくる姿がまたカッコよかった(たまたま私はここが見える場所で観覧していた)。
お祭りというよりは軍事教練色が濃厚に残っていてそれが故に素晴らしい。いや、私はそう思うし、それが面白くて非常に感心したのだけど、おそらくそれが故に、いつの時代も、いやいやこれは神事、これは伝統、そんな物騒なものではありません、おーほほ、というカバーが必要なんだろうと思った。
ついでにいえば、行った時に地元の人にお話しを聞いたところによれば、相馬家の代々の方が参加されることもあるんだそうだ(毎年必ずということではないらしい)。やっぱりお殿様が出てこなければ集団としてのまとまりがないものなぁと私は思ったが、しかし、ということは参加者のアイデンティティはやっぱり「その相馬」なんだろうなとかも思った。つまり、市長のいる相馬ではなくお殿様のいる相馬こそ本当のアイデンティティー、と。
しかし、いやこういうことを言うとなんだか物騒なので、さらに、いえいえこれは神事です、伝統です、ええ、まさに神事です、という穏やかなカバーが必要だということになるでしょう。
考えれば考えるほど面白いと思いました。
いずれにしても戦国ファンの方必見です。しかし、一方で、間違っても大規模な観光化されてほしくないという気持ちもありますねぇ~。密かにさりげなく見たい人が見学に行くのがいい行事だと思う。なんにしても、よくぞここまで続いたと感心させられること大です。
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タグ:戦国
秀吉が朝倉氏の滅亡を書状で伝える [戦国]
秀吉の書状が発見され、その書状で秀吉は朝倉氏はもうだめだ、と書いていたという話。福井県の一乗谷朝倉氏遺跡資料館が購入した書状が秀吉の書状で、その書状で秀吉は丹後の武将矢野備後守に、朝倉はもうだめと書いていた、と。
秀吉「朝倉氏滅亡」の書状、攻防と戦況伝える 2日から遺跡資料館で公開 福井
こちらの福井新聞の記事も詳しい。
写真はここ。
で、書状は島根県の男性から資料館に連絡があって、そこから鑑定を経て福井県が購入したらしい。この男性はどこでこれを手に入れたんでしょうね。そのへんも知りたい。家にあったのか、それとも売買の果てなのか。でも金額がそう高額でないことから考えても売買ではないような気がする、と勝手なことを言ってみる。
秀吉「朝倉氏滅亡」の書状、攻防と戦況伝える 2日から遺跡資料館で公開 福井
織田信長の天正元(1573)年8月の朝倉攻めのときに朝倉氏の滅亡を知らせた羽柴(豊臣)秀吉の書状が見つかったと県が28日、発表した。一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、秀吉が朝倉義景の自刃を丹後の有力武将、矢野備後守宛てに送ったもので、朝倉氏の最期を知らせる最も早い書状とし、丹後(京都府)や近江(滋賀県)の小谷城など周辺の戦況を伝える貴重な資料としている。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150429-00000010-san-l18
こちらの福井新聞の記事も詳しい。
書状は縦26センチ、横42・8センチ。1573(天正元)年8月22日、織田信長による朝倉氏への攻撃に従軍していた秀吉が、舞鶴に拠点を構えた丹後の矢野備後守(びんごのかみ)あてに送った書状とされる。 http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/pickup_photo/69914.html
写真はここ。
で、書状は島根県の男性から資料館に連絡があって、そこから鑑定を経て福井県が購入したらしい。この男性はどこでこれを手に入れたんでしょうね。そのへんも知りたい。家にあったのか、それとも売買の果てなのか。でも金額がそう高額でないことから考えても売買ではないような気がする、と勝手なことを言ってみる。
タグ:戦国
関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制/笠谷和比古 [戦国]
歴史というのは物語のように読めればいいのです、という人が結構いるけど私は半分賛成、半分反対。
物語は幾通りにも読めるし、どれだけでも掘っていけるのが物語だとでもいうのなら賛成というところ。
日本で最も好まれる話、あるいは日本人ならほぼ間違いなく大体知ってるところといえば戦国時代から江戸時代にかけての話になるだろうか。その物語のピークには関ヶ原がある、と。しかし、この合戦一つですべてが変わるというのは、なんというかプレゼン資料としては優秀な作り方かもしれないけど、一つのイベントで話が変わるのなら、それはそうなるべく揃いつつあった潜在的体制があったと考えるべきでしょう。
事実、「関ヶ原」ピリオドともいうべき時期には、局地戦としての、メインイベントとしての関ヶ原以外に、実際には全国的に合戦はあったし、合戦ではない政治的戦いも実に幅広くあった。
このへんのお話を非常に上手にまとめてくださった本として、笠谷 和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」は優れていると思う。大分前に読んだ本だけど、時々ドラマを視聴しながら引っ張り出して読んだりしている。
物語は幾通りにも読めるし、どれだけでも掘っていけるのが物語だとでもいうのなら賛成というところ。
日本で最も好まれる話、あるいは日本人ならほぼ間違いなく大体知ってるところといえば戦国時代から江戸時代にかけての話になるだろうか。その物語のピークには関ヶ原がある、と。しかし、この合戦一つですべてが変わるというのは、なんというかプレゼン資料としては優秀な作り方かもしれないけど、一つのイベントで話が変わるのなら、それはそうなるべく揃いつつあった潜在的体制があったと考えるべきでしょう。
事実、「関ヶ原」ピリオドともいうべき時期には、局地戦としての、メインイベントとしての関ヶ原以外に、実際には全国的に合戦はあったし、合戦ではない政治的戦いも実に幅広くあった。
このへんのお話を非常に上手にまとめてくださった本として、笠谷 和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」は優れていると思う。大分前に読んだ本だけど、時々ドラマを視聴しながら引っ張り出して読んだりしている。
坂東三津五郎さん死去 59歳、膵臓がん闘病中 [戦国]
坂東三津五郎さん死去 59歳、膵臓がん闘病中
踊りの名手として知られ、端正な芸で幅広い役を演じた歌舞伎俳優の十代目坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名守田寿〈もりた・ひさし〉)さんが21日、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去した。59歳だった。遺族による密葬の後、本葬は25日午後3時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は長男二代目坂東巳之助(みのすけ)さん。
http://www.asahi.com/articles/ASH2Q4TCSH2QUCLV008.html
なんということ。勘三郎さんが亡くなった時にものすごく嘆かれていたことが心に残る。同じように多くの人が三津五郎さんの死を嘆くでしょう。
三津五郎さん時代ももちろんだけど、八十助さん時代も渋くて好きでした。
ご冥福をお祈りします。
wiki情報:利休 (映画)
踊りの名手として知られ、端正な芸で幅広い役を演じた歌舞伎俳優の十代目坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名守田寿〈もりた・ひさし〉)さんが21日、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去した。59歳だった。遺族による密葬の後、本葬は25日午後3時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は長男二代目坂東巳之助(みのすけ)さん。
http://www.asahi.com/articles/ASH2Q4TCSH2QUCLV008.html
なんということ。勘三郎さんが亡くなった時にものすごく嘆かれていたことが心に残る。同じように多くの人が三津五郎さんの死を嘆くでしょう。
三津五郎さん時代ももちろんだけど、八十助さん時代も渋くて好きでした。
ご冥福をお祈りします。
wiki情報:利休 (映画)
タグ:戦国